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西成、東成、住吉の三郡を併せたら現在の大阪市
古事記には、大阪湾の中央、南北に突き出した上町台地の東部の河内湖沿いを「難波大郡」、西部の大阪湾沿いを「難波小郡」と称したと記載されています。大郡・小郡とは大化の改新の制度で、五十戸を「里」とし三里で「小郡」、四里~三十里で「中郡」、四十里以上で「大郡」となります。つまり外海に面している割に西側のほうが小さな集落でした。その後、和銅6年(713年)に郡郷の名称が公式に定められ、東部の難波大郡を東生(ひがしなり)、西部の難波小郡を西生(にしなり)と称するようになりました。 西成の「なり」は「生る」に由来し、「上町台地の西側に新たに生まれた集落」という意味だったのです。

 
 



 
西成郡の歴史、消滅と誕生の変遷
現在の大阪市西淀川区・淀川区・東淀川区・此花区・福島区・北区・港区・西区・中央区・大正区・浪速区・西成区を中心とした地域が西成郡だ
西成郡(にしなりぐん、にしなりごおり)は摂津国の郡のひとつで、ほぼ大阪の上町台地を境に西半分にあたり神崎川が北限になる。現在の大阪市西淀川区・淀川区・東淀川区・此花区・福島区・北区・港区・西区・中央区・大正区・浪速区・西成区を中心とした地域が西成郡だ。
 「古事記」には、大阪湾の中央、南北に突き出した上町台地の東部、河内湖沿いを「難波大郡」、西部、大阪湾沿いを「難波小郡」と称したと記載されている。大郡・小郡とは大化の改新の制度で、五十戸を「里」とし三里で「小郡」、四里~三十里で「中郡」、四十里以上で「大郡」となる。つまり外海に面している割に西側のほうが小さな集落だった。その後、和銅6年(713年)に郡郷の名称が公式に定められ、東部の難波大郡を「東生(ひがしなり)」、西部の難波小郡を「西生(にしなり)」と称するようになった。 西成の「なり」は「生る」に由来し、「上町台地の西側に新たに生まれた集落」という意味であった。
 難波京が廃れてからは、中世には渡辺津が繁栄を極め、その後、石山本願寺が上町台地の突端に置かれるようになって周囲に町が発達した。豊臣秀吉は石山本願寺跡に大阪城を築き、上町台地西側に新しい都市、大坂の町割を行い全国から商人を集めた。大坂の陣後も徳川幕府が引き続き大坂の整備と特権を認めて天下の台所と呼ばれるまでの商工業都市となった。一方、淀川や大和川が流してくる土砂は上町台地のはるか西の沖合いまで、いくつもの支流と小島を作って海を埋め尽くすようになり、次第にこれらの新しい島も新田開発が進められるようになった。
 明治11年(1878年)に江戸期の名に基づく郡や区(大都市)・町村が置かれ、改めて「大阪府西成郡」が誕生した。郡役所は上福島村に置かれた。このとき、摂津国時代の西成郡から、「北区」「西区」「東区」「南区」の4区が独立した。
 市制・町村制により明治22年(1889年)、4区が大阪市となり、明治30年(1897年)の第1次市域拡張で西成郡の町村のうち大阪駅周辺の新市街地のみならず、淀川支流の河口に広がっていた島々(現在の港区・西区・大正区などにあたる)がすべて大阪市に併合されることになった。この合併で、西成郡は北(新淀川の北側一帯)と南(大阪市街の南の木津川沿い)の二つに分かれた飛び地になってしまった。
 大正15年(1925年)の第2次市域拡張で西成郡は完全に大阪市に併合され消滅した。新淀川の北の町村は、「西淀川区」「東淀川区」の名称で併合され、木津川沿いの南側の町村は、「西成区」となった。さらに1932年(昭和7年)、1943年(昭和18年)、1974年(昭和49年)の3回の再編でさらに複雑に分割され、西成区はいくつかの町を他区に割譲しただけだったが、西淀川区と東淀川区はさらに淀川区、大淀区などに分割された。

Wikipedia「西成郡」より引用
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E6%88%90%E9%83%A1&oldid=16815579

[資料]西成郡の町村の変遷 抜粋
明治22年(1889年)までの西成郡の町村 1889年~
1945年~

 ●天保町
 ●三軒屋町、三軒屋村
 ●九条村、岩崎新田
 ●市岡新田、難波島新田、中口新田、今木新田、
  千島新田、南恩加島(みなみおかじま)新田、
  平尾新田、炭屋新田、泉尾新田、小林新田、
  岡田新田、
  北恩加島新田、千歳新田、石田新田、田中新田、
  木屋新田、湊屋新田、八幡屋新田、池田新田、
  北福崎新田、前田屋新田、池山新田、南福崎新田

 →天保町
 →三軒屋村
 →九条村
 →川南村




西区
 ●上福島村
 ●下福島村、安井村→下福島村
 ●北野村、
 ●曽根崎村、
 ●野田村
 ●川崎村
 →上福島村
 →下福島村
 →北野村、
 →曽根崎村
 →野田村
 →川崎村
北区
 ●西浜町
 ●難波村、西側町、材木置場町、西高津村
 ●木津村
 →西浜町
 →難波村
南区
 ●北伝法村、南伝法村、申村
 ●浦江村、大仁村、塚本村、海老江村
 ●島村、野里村、御幣島(みてじま)村
 ●大和田村、蒲島新田、大野村、佃村、百島新田
 ●稗島村
 ●福村、南酉島(みなみとりしま)新田
 ●北酉島新田、矢倉新田、出来島新田、中島新田、
  酉洲新田、西島新田、布屋新田、秀野新田
 →伝法町
 →鷺洲村
 →歌島村
 →千船村
 →稗島村
 →福村
 →川北村

西淀川区
 ●四貫島村、春日出新田、南新田、六軒屋新田、
  島屋新田、本酉島新田、西野新田、恩貴島新田、
  常吉新田、西九条村→川北村→
 →川北村


西淀川区
→西区  

 ●下三番村、光立寺村、小島新田村、
  小島古堤新田、成小路村
 ●本庄村、国分寺村、南浜村、南長柄村、北長柄村
 ●西中島村
 ●天王寺庄村、菅原村、橋寺村、三番村
 ●北大道村、西大道村、南大道村
 ●小松村、江口村
 ●上新庄村、下新庄村
 ●蒲田村、南宮原村、宮原新家村、東宮原村、
  十八条村、北宮原村
 ●三津屋村、小島村、堀村、木川村、堀上村、
  野中村、新在家村、今里村

 →中津村

 →豊崎村
 →西中島村
 →豊里村
 →大道村
 →中島村
 →新庄村
 →北中島村

 →神津村

東淀川区
 ●勝間村
 ●粉浜村
 ●津守新田
 ●今宮村
 →勝間村
 →粉浜村
 →津守村
 →今宮村
西成区


現在の大阪市旭区・都島区・城東区・鶴見区・東成区・中央区・
天王寺区・阿倍野区・生野区を中心とした地域が東成郡だ   

古代
「日本書紀」に、大阪湾の中央に南北に突き出した上町台地の東部(河内湖沿い)を「難波大郡」(なにわのおおごおり)、西部(大阪湾沿い)を「難波小郡」(なにわのこごおり)と称したことが記載されている。大郡・小郡とは大化の改新の制度で、五十戸を「里」とし三里で「小郡」、四里〜三十里で「中郡」、四十里以上で「大郡」となる。つまり東側のほうが住居が多くはるかに巨大だった。

和銅6年(713年)、郡郷の名称が公式に定められ、東部の難波大郡を東生郡、西部の難波小郡を西生郡(後に西成郡)と称するようになった。東生の「生」は「生る」に由来し、「上町台地の東に新たに生まれた集落」という意味であった。

古代の百済の言葉との関係を指摘する説もある。「ナリ」は古代百済語で渡船場を意味すると見られ、たとえば一時百済の首都だった熊津(現・公州)を「日本書紀」の雄略紀二十一年で「久麻那利」(くまなり)と読んでいるので、「津」を当時「ナリ」と読んでいたことが推定される。つまり、上町台地の「東側の津(ひがしなり)」「西側の津(にしなり)」である。上町台地東側の水運に関して、「日本書紀」の仁徳紀十四年には「猪甘津(いかいのつ)に橋為す。即ち其の所を号けて、小橋(おばせ)と曰ふ。」とあり、おそらく古墳時代ごろには現在の鶴橋駅近くの東小橋周辺に、後に平野川となった川が注ぐ猪甘津という入り江の港があり、その川に物資運搬や通行用の橋が架けられたと思われる。もっともこういった港が「東生郡」の名がつく奈良時代まで土砂に埋まらず残っていたかは不明である。

室町時代〜
摂津のうち神崎川以南の西生・東生・住吉の3郡は「欠郡」(かけのこおり)と総称され、分郡守護が置かれた。
中世以降「東生」と「東成」の表記が混在するようになり、江戸時代中期以降はほとんど「東成」と表記されている。

明治
旧来の村名等を否定した大区小区制による混乱期を経て、1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行によって、改めて大阪府東成郡が誕生した。東成郡役所は天王寺村に置かれた。
この頃の範囲は大阪市旭区・都島区・城東区・鶴見区・東成区・中央区・天王寺区・阿倍野区・生野区を中心とした地域であった。現在の大阪市の範囲はほぼ西成郡・東成郡+住吉郡の三郡の範囲と重なっていた。
また、人口密集地部分である大阪市街は郡から分離して区が置かれ、一部が大阪府東区・南区となった。
1890年(明治23年)の府県制・郡制の制定により、大阪府では1896年(明治29年)4月に新しい郡制が施行され、現在の平野区・東住吉区・住吉区・住之江区を範囲としていた住吉郡が東成郡に併合された。

東成郡の消滅と東成区の誕生
一方、それに先立つ1888年(明治21年)の市制・町村制により1889年(明治22年)に大阪市が誕生しており、1897年(明治30年)4月の第1次市域拡張で東成郡の町村のうち大阪鉄道城東線(現在のJR大阪環状線)内部は大阪市に編入され、続く1925年(大正14年)4月の第2次市域拡張で残る東成郡は完全に大阪市に併合され消滅した。 この時、1896年(明治29年)合併前の旧東成郡が「東成区」に、旧住吉郡と天王寺村の区域が「住吉区」になった。また、第2次市域拡張の際に大阪市は区の再編を行い、1897年(明治30年)4月の第1次市域拡張で併合した部分を新しい区に分けるなどして4区から13区に増やした。「東成区」「住吉区」も、1932年(昭和7年)、1943年(昭和18年)、1974年(昭和49年)の3回の再編で複雑に分割された。

1955年(昭和30年)の第3次市域拡張(河内編入)では、中河内郡長吉村・瓜破村・矢田村・加美村・巽町、北河内郡茨田町が併合され、既存の区に編入された。大阪市のうち、だいたい国道479号線を境に東側は摂津国や東成郡ではなかった部分になっている。

郡内自治体変遷
* 1879年(明治12年)4月1日、郡区町村編制法で清堀村と西高津村を西成郡から編入。
* 1889年(明治22年)4月1日、市制町村制で清堀村、東平野町、玉造町、西高津村、天王寺村、生野村、鶴橋村、中本村、北新開荘村、南新開荘村、小路村、榎本村、鯰江村、野田村、榎並村、都島村、城北村、古市村、清水村の2町17村に再編。
* 1896年(明治29年)4月1日、新しい郡制で住吉郡が編入される。平野郷町、喜連村、北百済村、南百済村、田辺村、依羅村、墨江村、住吉村、安立町、敷津村、長居村の2町9村が合流し4町26村に。
* 1897年(明治30年)4月1日、大阪市、第1次市域拡張。東平野町・玉造町・清堀村・西高津村の全域と鶴橋村の一部が大阪市東区へ、天王寺村・生野村の一部が大阪市南区へ、鯰江村・野田村・都島村の一部が大阪市北区に合併される。また、野田村の残りは鯰江村に、都島村の残りは城北村に合併される。残り2町22村。
* 1902年(明治35年)4月1日、榎本村が北河内郡今津村を合併。2町22村。
* 1910年(明治43年)9月1日、鯰江村が町制施行。3町21村。
* 1912年(大正元年)10月1日、鶴橋村・中本村が町制施行。5町19村。
* 1914年(大正3年)4月1日、田辺村が町制施行。6町18村。
* 1914年(大正3年)10月1日、榎並村が町制施行。7町17村。
* 1916年(大正5年)1月1日、南新開荘村が神路村に改称、北新開荘村が城東村に改称。7町17村。
* 1925年(大正14年)4月1日、大阪市、第2次市域拡張。全町村が大阪市に合併される。天王寺村と旧住吉郡の町村は住吉区へ、残りの東成郡で東成区を新設。

式内社
延喜式神名帳には、東生郡に以下の大社3座2社、小社1座1社の計4座3社が記されている。
* 難波坐生國咲國魂神社二座(名神大社、月次相甞新甞)(現 生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町))
* 比売許曽神社(名神大社、月次相甞新甞)(論社2社)
o 比売許曽神社(大阪市東成区東小橋三丁目)
o 高津宮摂社・比売許曽神社(大阪市中央区高津一丁目)
* 阿遅速雄神社(大阪市鶴見区放出東三丁目)